昭和五十六年十一月十七日 朝の御理解
御理解第六十六節 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。
お道の信心は人間が信心をして、幸福になっていくと言う手立て。しかも日勝り、月勝り、子孫繁盛、家繁盛、そういう道を教えてあるのが、金光教の教えであり、又信心でありますけれども、そういうおかげがおかでになってこないと言うのは、ま-ね、信心があっても自分勝手な生き方をするからではないでしょうか。ね、人間は勝手なもので,とおっしゃるが信心を頂いておる、教えを頂いておっても、やはり勝手な生き方をする。
そこに今日の六十六節とありますのは、も、お徳と言うものは、限りなく頂きに頂き続けていけれるもんだと、六プラス六ですよね。限りないお徳を頂いていくと言う。そういう御信心、そういう教えを、又は道を教えて頂いておるのですからね。その道中をね、所謂生まれて来る時にも、日柄もいわなきゃ、方位も言わん。死んで行く時にはね、それこそ駆けっていぬるように、日柄も方位も言わずに駆けっていなければならない。そういう人が人間の殆どではなかろうか。そこに人間が幸福になって行く手立てと言うのは、人間がかってな生き方をせずに、ま難しういうと自分を中心ではなくて神様を中心にする生き方ね。私中心でなくて神様中心の生き方。これを学ばせて頂いたらね、すばらしいお徳に、お徳の花が咲いて又、実が実のっていくと言うような。も-なんて言うか、自然にいうなら育っていくようなおかげが頂かれる。だからその基本と言うか基礎というか、金光大神。なら、勝手な生き方と言うものが、勝手ではない生き方とはどういう生き方をさせて頂くのか。只、日柄方位を言わんだけでいいのか、とね、そこんところを私は、合楽理念は本当に分かり易く、詳しく解くと思うんですよね。第一、今日は『合楽の目玉商品』と言う亊を頂いたんですけれども、皆さん合楽がもし、合楽と言うデパ-トかなんかであって、そこのいつもの目玉商品と言うたらどんな亊だと思いますか。目玉商品と言うのはもうだれでもが飛びつきたいようないうなら商品と言う意味でしょうもん。ね、その目玉商品。ふなら合楽理念の目玉商品と言うたらどの辺の所でしょう。それに飛びつかず、それに頂かなかったら合楽通いの値打ちはないですよね。ま、いつも言われるようにね、『人間は土より出でて土に帰る』これは神様から頂いたはっきりした教えです。
人間は土より出でて土に帰るんだから、その道中とても土の心でいけよ。と言うてここでは土の心を解くわけです、ね。いわゆる黙って治めるとか、成りゆきを尊ぶとか、大切にするとかと、内容になってくると大変色々ありましょうけどもね。だから、結局簡単に言うてです。お道の信心は人間が自分の我情、我欲を満たすための神様とか信心じゃなくて、も、どこまでもね、神様を分からせてもらう。そして神様の心次第にいわゆる、神様中心、神様本意のいきかたが出来れる信心です。手立てです。生き方です。合楽に御縁頂いておっても、いつも自分が中心。神様が中心じゃない。土の心と言われるからね、辛抱力も作っていかんなと段々分かってくるけれども、やっぱりそれが、しだごだの亊になっていく。これはね、いわゆるなんでも同じ亊なんですけども、それが自分の神情ともなる。いわゆるそれが、自分の血、肉になってまいりますとね、それこそ六十六節で自ずと自分の心は豊かになり、大きくなり、問題が問題でなくなり、ね、も、不思議に和賀心が自ずと育っていき、心が限りなく豊かに、大きくなっていけれるもんです。これは私が何十年間の信心の体験から申しあげられるですね。そこの合楽の久保山さんがいつか発表されたんですけど。合楽に御縁を、一心にお参りされるようになって、ま-六、七、八年でしょうか。ま、兎に角、成りゆきを尊ぶ、大切にすると言う亊が本当にも、心から日々がお参りをしてその亊をやっぱり繰り返し、あのお願いをして帰られます。ね、そして七年、八年も立ったから分からせて頂いた亊は確かに。、親先生、我情がいつの間にかなくなっていきよる。我欲が段々少なくなっていきよる自分に気がついてきて、びっくりするくらいだと言う亊はいよいよ豊かに、こころが大きく、美しうなっていきよるという亊なもなるわけ。それに徹するとそういう亊なんですね。だから和賀心になれよ、美しくなれよと、こう美しい心になろう。和賀心になろう。なかなかですけれども、いうならば教えを徹していく。いよいよ成りゆきを尊ぶ。こげな見易い亊はない。簡単です。明瞭です。と言うふうに合楽で言われますようにね。その、兎に角土の心になりさえすればよかっじゃから。人間な土から出でて土に帰るのだから、その道中とても土の心でいくと言うことがこんなにはっきりした道理はないのだから。それに取り組む亊だからこげん見易い亊はない、ともいえるわけです。所がなかなか土の心に徹するという亊ができない。結局自分の勝手が出てくるわけなんです。 本当にね、自分勝手の生き方は、じぶんの思うような生き方が、よし出来たに致しましても、それは淋しい亊であったり、悲しい亊であったり、結論はそうなるんです。自分の思うような亊が出来る人が本当に幸福かと言うたら、そうではないんです。しかもそれが年を取っていくにしたがって淋しゆうなるんです。そういう生き方は。
ね、ですからどこまでも、いうならば神様の心を体していく。いわゆる神様の心を中心にした、ね、神様本意の生き方と言うものが、どのくらい素晴らしく、どの位有り難いもんか。これはもうわからん。限りがない。と言うほどしに自分の心は豊かになり大きくなり。いわゆる六十六節である。ね、限りないお徳が広がっていく。その元が今日の御理解から頂くと、勝手な生き方をしないで、神様を中心にした生き方。そこになら、ま始めの間は御神意を頂き頂きと言う亊になるのです。
昨日はある修行生が今から、ちょっと久留米に行きます、とこういう。な、行っちゃでけんちゃ、決していわんばってん、な、ここで修行するからには、どげなよっか知らんばってんからね。勝手に出ちゃならんと私は申しました。何でもない、行かんでも済むごっ所へ、結局、自分中心にとな、久留米に行かなきゃならんごとなってくる。けども行かんでよいとたとえば言われて、行かんでおると行かんですんだ位なこっちゃないおかげが頂けるという亊。だから、ちょいというとならば、合楽の信心は窮屈なようにあるけれども、も、それこそ無碍に広がっていけれる心の状態が出けるための信心修行です。
ね、まいうなら、ここ畳半畳に、こうやって一日中、御用させてもらう。それでいて、私の心と言うものは、世界中を駆けめぐってますからね。本当に窮屈とも、あ-、狭いとことだとも思わない。私が昨日、先生方に言うんですけれども、何が何でも御取り次ぎをさせて頂くならね、御結界が一番有り難い所にならな駄目だよ、と言うて、どんなに苦しい時とか、色々悩みがある時でも御結界に座っとったが一番楽なんだと、ね。という位にね、取り次ぎ者は御結界と言う所がも、こよない助かりの場として頂けてくるようにならな本当の御取り次ぎは出けんよともうしますが。なら、信者の皆さんの場合であってもそうです。自分のよかごと思うごとしたい。と言う亊もあろうけども、そこを果たしてそれが御神意に適うものかどうかを、確かめながら神様はどう思うておいでだろうかと言う神様の心をおもんぱかっての生き方。それが日頃教えを頂いておらんと分からん。どれが本当な亊か。由、教えにはこういう時には、こう、いうなら合楽理念をひもとけば、それがはっきり分かるようになってるのだと。こういう時にはこういう頂き方をせんならん。というてそれをぎこちないけれども、それを実験実証さして頂いておるといわゆる、実証が生まれてくる。ね、成程、行かんでよかったとか、ね、自分の思う通りにせんでよかった、とかいうような所に至ってくるから信心が、いわば楽しいものになって、いよいよ信心が血に、肉になってくるというなら、勝手な生き方ではなく、自分勝手な生き方ではなく、自分中心の生き方でなくて神様を中心にした生き方が出けるようになれよという、教えだと私は思うです。これはそんな亊はいっちょんここには触れてはありませんですね。な、人間が勝手なものだと言うておられる亊なんです。生まれる時も、死ぬる時も、な、自分の思うように出けんけども、途中だけ自分勝手にして生きる。とこう言うふな、ま、表現で教えておられますけども、私は今日はこの六十六節と言う所を頂いて感じたんですけどもね。結局この御教えの、そんならどういう生き方が勝手でない生き方かと言う亊に焦点をおいてですよね。勝手なものじゃなくて、勝手ではない生き方とはどういう生き方をすることが、と言う亊に焦点を置いて、いうなら教えを頂久亊になると、いよいよ成りゆきを尊ばなきゃおられんのであり、土の心で黙って治める限りない、美しい心にもならせて頂きたいというような心がこれに育ってくる。しかもそれはね、も-、自ずと一つの基礎と言うものが出けると自ずと育ってくるものです。六十六節です。ね、しかもこれはね魂の世界に入ってからでもその所が、手立てがね出けとりますから、いうならば大地に何か、木なら木を植えるとそれが放っておいても、自然にこう大きくなるようなもんです。だから一つここん所をですね、ただ、あのお伺いをすると言うでも、自分の都合げお伺いをする。自分の都合のよかごとなるようにどうぞ、お願いします、と言うてお願いををする。と言ったような信心から、一つ脱却しなきゃね。そして言うならば、神様本意の生き方が出ける。まあ、皆さん合楽にこうやって御縁を頂いて、合楽の信心で皆さんが、は-、ふんなこて飛びつくごた素晴らしいと言うなら、ふなら何か、まあ大きくいうならば合楽は御理解力でと言われる位ですから、合楽の御理解です。その御理解を頂かず、行じずしては合楽に通うてくる値打ちはないです。
その中の又、目玉商品と言うのはですね、ま、いうなら本気で土の心にならせてもらおうと。土の心をいよいよ不覚、広く分からせてもろうて、土の心を身につけていくといったゆな亊にもなるのじゃないでしょうか。これは皆さんの各々の所の信心でね、皆さん好みのです、合楽理念に解かれるそのどこまでもよいから、これこそが目玉商品と思う所に飛びついて、それを自分のものにしようとする意欲そのものが日々の信心の稽古なんです。
今日あれば頼まんけんで、こらば願わなんけんでと言うのではね。昨日の御理解ではないけれども、叶わないとそれを苦労と思うようになるです。そしてそれを修行とおもうとります。と言うような亊じゃなくてね。修行を修行と感じんですむような、いうならばおかげを頂く與には、神様を中心にいわゆる神様本意の信心をさして頂く。あるとき神様からもう、むかしでしたけど頂いた。氏子、あの、これは三代金光様の御教えですよね。氏子が神様まかせなら、神様が氏子まかせになると仰せられますからと仰る。ね、神様が私共まかせになって下さる為には、私共が先ずは神様本意にならせて頂いたら、神様が氏子本意になって下さろうと言うのだから、それはも、素晴らしいです。ね、だからそういう稽古ですからね、ね、参る稽古じゃないです。拝む稽古じゃないです。教えを頂いて日々の中にそれを実験実証していく稽古なんです。ね、そこにいたらなければ私は合楽の値打ちと言うものはない。ね、どうぞ合楽の目玉商品と言われる、思われるような所をひとつ、皆さんが本気で介買い求められる。自分のものにしていく信心をして頂きたいと思う。 「どうぞ。」